■善人の自己犠牲は不幸をよぶ
二十数年前。渋滞中の車内。記憶もおぼろげだが(笑)確か父親が
「誰かが順番をゆずらないとあの車は先に進めない」
といった風なことを言い、左折車に前をゆずっていた。
私は単純に
「車一台分、おそくなった」
と思った。
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昨年、父親が死去した。57歳だった。
糖尿病・不整脈等併発。直接の死因は不明、突然死。
30代退職⇒精神をやむ⇒離婚⇒病院送り⇒死去
人の人生なので、本当はもっと複雑だがおおむね上記となる。
精神をやんで退職したのか
退職して精神をやんだのか、はっきりわからない。
私は母親に引き取られ、離婚時が今生の別れとなった。
父親は明るく善人でお人好しであった。
ゆえに思う。
「善人あるいはお人好しであることは、幸せの条件ではない」
「むしろ足をひっぱる」
と。
父親の人生後半、
客観的にみて幸せとは思えない。
まあ、幸せか否かは本人の主観で決まることだが。
当時会社は不景気で、父は有能な営業であったと聞く。
ならば
職をゆずり、幸せな人生もゆずることになったのではないか。
そう思う。
推測でものを語るのはよくないが、
私にとって真偽はたいした価値をもたないので、語る。
私が語る話を受けて、あなたが自分の頭で考え、
なにか得られればそれ自体に価値がある。
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「情けは人の為ならず」
という言葉がある。
その人のためにならない、という意味でなく、
人にかけた情けはめぐりめぐって己にかえってくる、だから親切にせよ、という意味だ。
因果応報。
人に親切にし、助ける姿は美しい。
本当に、そうだろうか。
……否、ウソだな。
ただ、世の中を住みやすいものにするためのウソだ。
それを無条件に美しいとする価値観で洗脳しているだけだろう。
だが、これを自分の頭で考えず盲信するだけの
クソ真面目なお人好しにとっては、毒だ。猛毒だ。死に至る。
自分にとって無価値か、低価値、たやすいもので
他人にとって価値あるものをゆずるのが正解だ。
なんでもかんでも、自己を犠牲にしてまでゆずればいいというものではない。
自分のこともままならない人間が
他人の心配をし、あまつさえ助けようなどと。
おこがましく、みにくい。
あえてみにくいという言葉を使いたい。
■やさしさとは賢明さの事
「お人好し」あるいは「善人」だった父親の生き様。
ここから私が学んだことの一つは
「善人というだけでは幸せにはなれない」
ということ。
ということ。
「悪にはしれ」
といいたいのではない。
自分が善人であるという自覚のあるものは
賢くならなければいけない。
おのれの善たる正しさを世の中に押し通すには
賢さという武器が必要なのだ。
賢くない善人は、ただ搾取されるだけの存在だ。
善人やお人好しは、
「やさしさとは賢さのことである」
という価値観で洗脳し、自発的に賢くなる行動をとらせたい。
善とは自己犠牲のことではない。
賢くない善人は、ただ搾取されるだけの存在だ。
善人やお人好しは、
「やさしさとは賢さのことである」
という価値観で洗脳し、自発的に賢くなる行動をとらせたい。
善とは自己犠牲のことではない。
賢くなるには本でもネットでも、情報を集めればよい。
誤った理論からは
誤った結果しか得られず
得られた結果は想定したものでなく
想定外の結果は制御ができず
結果が想定できないのであれば
人生をコントロールすることもまた、できない。
人生をコントロールすることもまた、できない。