ある程度知名度のあるモノは
それまで積み上げたモノの
延長を考慮した作品を作らねば
違和感がでる。
仮に考慮しなくとも視聴者が
延長であると認識すればよい。
立ち位置でやるべきことは異なるので
真似するなら単に真似るのではなく、
自分に似合うかも考慮した方がよい。
似合う部分だけ選び取っても、
似合う形に落とし込んでもよい。
自己認識が甘いと誤る。
無名の場合は考慮の必要がない。
何色にも染まってはいない。
何者にもなることができるのは
何者でもないからだ。
もちろんなにをすべきか、
なにが最適かは
周辺環境時代にもよる。
質量ともに磨かれ
作品として完成されたモノは
所属するカテゴリーに
時代の波が来るのを待つ運頼みでもよいし、
実力で型を破り前に進むのもよい。
どちらかと言えば後者だが
どちらでもよいと思う。
ボクは無名で、他人事なのでね。
ただ、自分の好きなモノの内から
時代の波にのるカテゴリーを
自ら選びその手で掴み取っても
そもそも違和感もなにもないのは
無名故の自由さではある。
流行りのFPS、
ビッグタイトルのFortniteってことね。
個人独力ではない。
己に力、知名度がないなら
あるモノの力を借りればよい。
寛容なゲームは借りやすい。
ただ、借り方の上手さは賢さによる。
賢さは、というか能力上限は
ほぼ遺伝で決まる。
それを環境×時間で伸ばす。
知名度のある人がボクと同じムーブをしても
背景が違えば違和感しかない。
故に、己をみて適合する形に落とし込み
作品をつくることを自然と
やっているのではないかと。
それが型に囚われるということ。
基本的にはそれで正しい。
ただ、時代の波の変わり目では
間違いになったり、
波をつかみ損ねる要因になりえる場合もある。
そして無名のやるべきは
背景の説明であろうな。
説明せずとも言葉の端々で
感じ取れる部分もあるけど、
話す材料にも事欠かないので。
ただ、流行りに飛びついているだけ
のヒトでも同時並行で進めることはできる。
ボクはそういうのメンドウと思うけどねぇ。
ないモノを使うより
元々もっているモノを使う方が
合理的であろう。
まぁムリして疲弊してやる自由もある。
楽しくやってるヒトは
やるほど回復する、とは言わないが
イメージとして、同じことをしているのに
削られるか、回復するか
くらいの違いがあると思うよ。
それはヒトの適正によると。
以上。